JIA東海支部の半世紀A | |||
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職能運動の動揺 税田公道(終身正会員) |
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今回は、1953(昭和28)年の日本建築設計監理協会設立から、旧日本建築家協会(JAA)への改組改称を経て、日本建築家協会第1回全国大会が開催される1970(昭和45)年直前までのJIAの流れの中で、職能運動に大きな影響を与えた様々な出来事を述べることにする。 | |||
宮崎市庁舎・擬似コンベ問題 | |||
1961(昭和36)年、宮崎県宮崎市は、新庁舎建設の設計を設計競技によって募集することとし、JAA会員6名、会員外の建築家4名を指名した。しかし、その募集条件が3会制定の「規準」と著しく隔たっていたので、JAAは建築設計競技合同委員長名をもって同市に条件改善を申し入れた。同時に、指名された会員も協議の上、この条件では応募しないこととし、条件を改めてもらいたい旨を市当局に伝えた。また、指名された会員外の建築家もこれに賛同、応募を差し控えた。にもかかわらず、同市から何の応答もないまま、募集期日までに指名された会員のうち3名が設計図書を提出。設計競技は進行し審査の結果、「当選案なし」となり、応募報酬はその3名に平等に配分された。さらに、市庁舎の設計は同市建築課が行うこととなり、応募した会員のN氏に協力を求めてきた。それに対し同氏は、これを引き受けて設計の一部を担当した。 この問題は、1962(昭和37)年3月下旬の職責委員会で取り上げられた後、理事会において前出の3会員に対し、「参加行為の撤回」、「この競技設計による宮崎市庁舎の設計に関して一切の関係を断つ」との誓約が求められた。この措置に不同意の場合は「最悪の処分もやむを得ない」とし、3会員の謝罪・陳謝・誓約などを取りつける措置がとられ、結局、3会員は協会の処置に従い、引き続いて会員たることを希望したとして事件は落着した。このときの協会の態度は職能団体として、会員の自覚を高め、職能意識を明確化するべく規律強化を図るものであったが、それが、その後に起こった「八女問題」(1971(昭和46)年)をも含め、1972(昭和47)年からの「公取問題」へと展開していくとは、当時は誰も予想することができなかった。 |
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新宮殿設計問題(吉村事件) | |||
1965(昭和40)年6月、新宮殿の実施設計に入ってすでに2年近く経っていた吉村順三氏が、その設計を辞退したという報道が伝えられた。それは吉村氏が、去る4月12日、宇佐美宮内庁長官宛に公開質問書を送ったのに対し、同庁がその質問書の撤回を求めてきたので、6月17日に至って吉村氏が辞表を提出したというものである。 事件背景の根本的なところは、官僚機構全体が人間の創造活動を軽視しているということであり、それがこれまでも国立国会図書館コンペ以来のいくつかのコンペにまつわる「不祥事」や、建築の設計も工事も同等の扱いの元で入札発注に付するという「慣行」となって現れてきた。この「宮殿造営に関する設計委嘱」(1960(昭和35)年11月)においても、「基本設計指導委嘱」や「実施設計指導委嘱」であり、その報酬は極めて低かった。そこにおける宮内庁側の考えの中には、「吉村教授に設計の指導をお願いしたが、実施設計までお願いしたわけではない」という隠された意図があったのである。その意図を吉村氏がどれだけ見通していたのかどうかは別として、その委嘱契約に吉村氏が合意捺印してしまっている甘さに問題があったことも事実である。 果たせるかな、実施設計の段階に入ってからも金銭面のことはすべて宮内庁側に委ねられ、設計意図を実現させることがほとんどできないという事態に追い込まれた、いわゆる「吉村事件」が発生したのである。 それは当初から起るべくして起きた事件であり、それを見通すことのできなかった吉村氏の「甘さ」に問題があった。「宮殿設計という光栄な仕事ならば多少の問題があっても引き受けたい」というありがちな「甘さ」であった。しかし結果は、設計の辞表提出である。吉村氏は、それでも宮内庁側の出方を伺い、多少の相談なら応じるという曖昧な態度を残したが、宮内庁側は、「造営部で設計は続けられる。工事には実質的な影響はない」との考えを示したという。この事件に対するJAAの対応も曖昧な面を残すことになった。 |
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設計施工一貫問題に関する意見書 (鹿島論争) | |||
1967(昭和42)年のJAAの「建築設計監理業務法」の提案を契機として、鹿島建設会長の鹿島守之助氏は1968(昭和43)年5月27日、設計施工一貫方式の正当性について建設大臣宛て意見書を提出した。これに対し、JAAのスポークスマン市浦健氏は、同日、業界紙を対象に次のような5項目からなるコメントを発表した。 @本会の設計監理業務法の提案をきっかけとしての意見とすれば、それは誤解と言わなければならない。この点は本会提案をよく吟味されることを希望する。 A海外の資料により設計施工一貫の今日的妥当性を論じられたが、建築物についての一貫業務は海外でも極めて少ない。 B一貫業務をより合理的に行う業者の努力は別として、それが建築設計者の存在の社会的必然性を否定する論拠とはならない。 C日本の建設業の合理化という点では、日本の建築工事費が国際水準より高値であることに注意すべきである。それがいかなる原因によるか、業者の特命に起因する点もあると思われる。 D本会としては、鹿島氏の指摘のあった問題について常に関心を有するものなので、今後、詳細な検討を行って意見を表明する機会を持ちたいと考えている。 さらに同年6月1日、JAAは松田軍平会長名による「設計施工一貫性問題に関する意見書」を発表した。 これに対して同年7月16日、鹿島氏は「設計施工一貫性の論旨明確化について」という反論を展開。JAAは、「設監業務法案」が設計施工完全分離の立法化である専業の設計監理業務を行う者が建設業などを兼業とすることができないということである。もし建設業の設計部が設計監理業者として登録するとすれば、現状の営業的制約から離脱して自主独立の設計組織への脱皮と発展を図るという道も可能である。さもなければ、建設業は建設業法内で設計施工を行うことも可能であり、同法案が建設業の営業の自由を不正に制限するものではない」との趣旨の再反論を行った。 |
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<参考文献> 宮崎市庁舎問題については、JAAニュースNo107,109,111,113号を参照。 吉村事件については、宮内嘉久「職人、官僚そして不見識な職能団体−吉村事件の露呈したもの」国際建築1965年8月号/近江栄「国家的建造物の設計をめぐって」日本建築学会・建築年報1966/JAAニュースM181,183号を参照。 鹿島論争については、JAAニュースNo248,249,252,254号■季刊誌「建築家」1973秋号を参照。 その他、『日本の建築家職能の軌跡―新日本建築家協会の設立まで』(藤井正一郎、鶴巻昭二・著/日刊建設通信新聞社・刊) |
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1953(昭和28)年 | 会長 中村傳治/東海支部長 篠田 進 | ・東海支部設立総会開催 ・国会図書館コンペ問題起こる |
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1954(昭和29)年 | 会長 中村傳治/東海支部長 篠田 進 | ・建築士法改正〜事務所登録制実施 | |
1955(昭和30)年 | 会長 山下壽郎/東海支部長 篠田 進 | ・UIAに加盟その日本支部となる ・日本住宅公団法公布 ・機関誌「設計と監理」創刊 |
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1956(昭和31)年 | 会長 松田軍平/東海支部長 丹羽英二 | ・日本建築設計監理協会から旧日本建築家協会JAA)へ改組改称 ・丹下健三氏、「日本の建築家」発表 |
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1957(昭和32)年 | 会長 松田軍平/東海支部長 丹羽英二 | ・機関誌「設計と監理」を廃刊し、新たに「日本建築家協会ニュース」を創刊 ・支部予算85万円 支部会員31名 |
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1958(昭和33)年 | 会長 松田軍平/東海支部長 城戸武男 | ・日本建築家協会憲章を制定 ・支部会員31名 支部予算145万2千円 |
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1959(昭和34)年 | 会長 前川國男/東海支部長 城戸武男 | ・財団法人「建築業協会」設立 ・支部会員35名 ・支部予算234万円 |
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1960(昭和35)年 | 会長 前川國男/東海支部長 川口喜代枝 | ・建築家の業務及び報酬規程を制定 ・世界デザイン会議が一部名古屋市においても開催される |
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1961(昭和36)年 | 会長 前川國男/東海支部長 川口喜代枝 | ・九州支部を設置 ・宮崎市庁舎擬似コンペ問題 ・建築製図(JIS)の原案作成 ・支部会員40名 |
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1962(昭和37)年 | 会長 村野藤吾/東海支部長 川口喜代枝 | ・全国建築士事務所協会発足 ・支部会員44名 支部予算310万2千円 |
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1963(昭和38)年 | 会長 村野藤吾/東海支部長 川口喜代枝 | ・国際地震工学会発足 ・建築基準法改正(容積率)公布 |
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1964(昭和39)年 | 会長 坂倉準三/東海支部長 濱田瑞穂 | ・新潟地震被災地の視察 ・日本建築センター設立 ・支部会員66名 |
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1965(昭和40)年 | 会長 坂倉準三/東海支部長 濱田瑞穂 | ・財団法人明治村閑村。初代館長に谷 口吉郎氏 ・新宮殿設計問題−吉村事件 ・支部会員73名 |
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1966(昭41)年 | 会長 坂倉準三/東海支部長 濱田瑞穂 | ・建築設計監理業務法案発表 ・古都保存法制定 ・社団法人日本設備設計家協会発足 ・支部会員92名 |
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1967(昭和42)年 | 会長 坂倉準三/東海支部長 濱田瑞穂 | いわゆる「美観論争」−東京海上ビ ルの確認申請却下 ・日本建築積算事務所協会発足 ・「帝国ホテルを守る会」発足 ・建築設計監理業務法案を成文化しその制定運動始まる |
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1968(昭和43)年 | 会長 松田軍平/東海支部長 黒川巳喜 | ・全事連の「建築設計監理業務法」案 の議員立法に反対する運動を開始。 ・設計施工一貫問題に関する意見書超高層時代への第一歩一霞ヶ関ビル完成 ・支部会員107名 |
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1969(昭和44)年 | 会長 松田軍平/東海支部長 黒川巳喜 | ・建築設計競技規準運用指針案を公表 ・支部会員111名 |
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1970(昭和45)年 | 会長 市浦健/東海支部長 黒川巳喜 | ・日本初の万国博覧会が大阪にて開催 ・JAAの第1回全国大会が京都にて開催される |